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瀬戸内海に面する人口およそ2.6万人のまち、広島県大竹市に、世界的な注目を集めるアート複合施設があります。下瀬美術館、レストラン、ヴィラで構成された「SIMOSE」と名付けられた施設の設計は、建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞も受賞した世界的な建築家、坂 茂(ばん・しげる)氏が手がけました。近郊の観光地から多くの来場者を呼び込み、新たな人の流れを生み出し始めているSIMOSEを取材しました。坂 茂氏ご本人のコメントも交えてお届けします。
唯一無二のアート体験で、新たな観光地をつくる可動展示室越しに対岸の宮島を臨む(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「SIMOSEは、なにもなかった場所を観光地に変える挑戦です」そう語るのは、SIMOSEを運営するShimose A&R 株式会社の広報・営業部長の目黒真一(めぐろ・しんいち)さん。SIMOSEのある大竹市は広島市街から車で1時間以内、対岸に宮島を望む観光面でも好立地でありながら、これまでまち自体に観光客の目的地になるようなスポットはなかったといいます。
「広島市街から大竹市を越えて少し行くと錦帯橋もあるのですが、近隣市町の住民にとって大竹市は素通りするだけの場所でした。ただそれは、裏を返せば人を呼び込むポテンシャルはもっているということだと思います」
来館者を出迎えるエントランス棟。ミラーガラスの反射によって内部の様子がわからないようになっており、一歩踏み入れると異世界へ転じる仕掛け(撮影/STILB 朝比奈 千明)
美術館の全景。中央に建つ長さ180m、高さ8.5mのミラーガラススクリーンが瀬戸内海の景観を反射する(撮影/STILB 朝比奈 千明)
美術館のエントランス棟。2本の木から伸びた枝が広がって屋根になったような、構造体がそのまま表現されたデザイン(撮影/STILB 朝比奈 千明)
企画展示室内部。様々な展示に対応可能な、広く天井の高い空間(撮影/STILB 朝比奈 千明)
SIMOSEの立ち上げから現在の運営まで関わっている、Shimose A&R 株式会社、広報・営業部長の目黒真一さん(撮影/STILB 朝比奈 千明)
SIMOSEは4.6haもの広大な土地に美術館、宿泊施設、レストランが建ち並ぶアート複合施設。
美術館は、さまざまな展示に対応できる企画展示室と、水盤に並ぶ8つの可動展示室から構成されています。この可動展示室は8つの独立したカラフルなキューブを連結させたもので、水の浮力を活用して動かすことができる機構になっています。レイアウトを変更することができる、”動く建築”が目玉の美術館です。加えて美術館の主要コレクションにもなっている工芸家、エミール・ガレにちなんだ庭園「エミール・ガレの庭」は自由に散策できる屋外庭園として、四季折々の草花を楽しむことができます。
可動展示室は、1辺10mの正方形平面の形状。7パターンのレイアウトに変更可能(撮影/STILB 朝比奈 千明)
エミール・ガレの庭。坂 茂氏により、可動展示室の外壁色は、エミール・ガレが描いた花々を参考に決められた(撮影/STILB 朝比奈 千明)
春の様子(C)SIMOSE
またレストランでは、美術館併設の飲食店としては珍しい、フレンチのフルコースを提供。広島県産の食材も含め、シェフ自らが厳選した食材をオープンキッチンで調理するスタイルが好評です。エントランス内にはミュージアムカフェも備えており、1日ゆっくり滞在することのできる施設となっています。
下瀬美術館の建築について、坂 茂氏は次のように話します。
坂 茂氏
「美術館のコレクションだけでは恒常的に人を呼び続けるのは難しいと考え、建築自体が目的地になるようにしたいと考えました。その一つが可動展示室で、これまで継続的に考えてきた”動く建築”をかたちにしたものです。広島は造船業が盛んです。そこで台船という、船を動かすための考え方を取り入れて水の浮力で動かすことのできる展示室を設計しました。来るたびに建築のかたちが変われば、2度、3度と訪れる動機になります。水盤に並ぶボックスは、瀬戸内海の島々をイメージしたものです。瀬戸内海に面する海側に対して、山側には大型の商業施設が建ち、これが視界に入るとせっかくの自然豊かな眺望が台無しになってしまいます。そこで大きなミラーガラスを中心に据え、海側の景色を反射させるようにしました。どこまでも美しい景色が続いていく、自然とともにあるような建築になったと思います」(坂 茂氏)
美術館とは独立して建てられたレストラン棟。瀬戸内の島々を借景に、フルコースを堪能できる(C)SIMOSE
コース料理の一例(C)SIMOSE
さらに、SIMOSE最大の特徴が、坂 茂氏の住宅作品に泊まることのできるオーベルジュです。木立に囲まれた「森のヴィラ」と水盤に面した「水辺のヴィラ」の2つのエリアに、それぞれ5棟ずつの宿泊棟が建っています。このうち「森のヴィラ」の4棟は、坂 茂氏が過去に設計した別荘建築を再現したもの。建築界での評価も高い作品に泊まることのできる、まさに”泊まれるアート”として国内外から多くの宿泊客を惹きつけています。
開口部側に構造体を配置しないことで開放的な空間を実現した「壁のない家」の再現作品。窓を全開にすることで、外部空間と一体となる(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「壁のない家」寝室。最上級の宿泊体験を追求したサービスが徹底されている(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「オーベルジュの滞在施設としたヴィラは、独立初期の、建築家として最もとがっていた時期の作品を選びました。本来、所有者しか体験できない空間を、だれでも泊まることのできる宿泊施設にすることに価値が生まれると考えました」(坂 茂氏)
「紙の家」を再現したヴィラの外観。坂 茂デザインの代名詞ともいえる“紙管”が構造体となり、屋根を支える初期の代表作(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「紙の家」リビング。植栽越しに宮島が見える(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「紙の家」バスルーム。外気に触れる箇所も、防水加工された紙管で囲むデザイン(撮影/STILB 朝比奈 千明)
完成した美術館は、2024年12月にユネスコ(国連教育科学文化機関)の建築賞において、新設された「Museums」(美術館・博物館)のカテゴリーで最優秀賞となるベルサイユ賞を受賞。受賞を期に来館者数も増え、坂 茂氏が目指した「目的地になる建築」の理念が実現された成果といえるでしょう。
受賞を受けて、エントランスホールにはさまざまな企業や団体から贈られた祝花が並びました。目黒さんも、「世界的な賞の受賞は地域の方々にも喜んでいただいており、自分たちの町にこの美術館があることを誇りに思っていただけていると思う」と話します。
ベルサイユ賞の記念メダルと賞状はエントランスに設置されている(撮影/STILB 朝比奈 千明)
質の高いのサービスへの追求が、誰にとっても心地の良い空間へSIMOSEの計画は、広島市に本社を構える建築や設備の総合メーカー、丸井産業株式会社のオーナーである下瀬家が、これまで収集してきた美術品のコレクションを収蔵、管理、公開する場を設けることからスタートしました。
当初、本社横の敷地に建設することを想定していましたが、敷地が大竹の瀬戸内海に面する広大な場所に変更になり、建築家自身により美術館とオーベルジュを加える提案がありました。
大竹市には市内の他の観光名所などもなく、決して美術館に最適な立地ではないという目黒さん、だからこそ、新たな目的地をつくることに意味があるのだといいます。
「観光客にとって広島は、原爆ドームと宮島という2つの世界遺産を巡るゴールデンルートが完成されています。宮島には2024年には485万人の来島者が訪れており、仮にそのうちの10%でも呼び込むことができればそれだけで50万人規模になる。そのインパクトは、単にひとつの施設が潤うということではなく、周囲の飲食店や交通インフラにも波及するだけの影響があると考えています」
企画展示室の屋上、望洋テラスから海側を見る。右奥に見えるのは埋立地に建てられた大竹コンビナートの工場群(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「SIMOSEが目指しているのは、世界から満足いただけるサービスです。国内外からお越しいただく様々なお客様に対応できるようにすることで、展示だけを観に来る人も、ラグジュアリーホテルのサービスを求める人も満足いただける体験を提供できるようにしています。広島には富裕層向けのホテルが不足していると言われてきました。SIMOSEがその受け皿になって、観光地同士で顧客を奪い合うのではなく、広島に訪れた人がプラス1泊、2泊と長く滞在してくれるきっかけや滞在の拠点になっていくといいなと思っています」(目黒さん)
富裕層向けのサービスとしては、宿泊者向けに宮島からのプライベートボートでの送迎手配も行っているそう。またレストランでは動物性脂肪を控えたヘルシーなメニューが提供されており、健康意識の高い海外客にも好評だといいます。またビーガン料理など、個人の要望に応じたきめ細やかな対応も喜ばれています。
宿泊のレセプション棟。杉材を圧縮して鉄骨トラスのように応用した、木材の新たな可能性を追求したデザイン(撮影/STILB 朝比奈 千明)
ライトアップされた可動展示室(撮影/STILB 朝比奈 千明)
夜間はミラーガラスの内側の光が透過し、日中とは異なる表情を見せる(撮影/STILB 朝比奈 千明)
昨年は12~2月にはイルミネーションを点灯(C)SIMOSE
2023年3月にオープンした下瀬美術館の来館者数は、最初の一年間に8万人、2年目は10万人に到達しました。
「こうした文化施設は、1年目はお祝いムードや新規性が高く来館者数が伸びる一方で、2年目以降で頭打ちになることも多いですが、2年目の来場が1年目を上回る状況は、良い傾向です。近くに新しくお店ができたり、人の流れが変わりつつあるのを感じます」
これまでに2度、SIMOSEを訪れた筆者もまちの変化を感じる出来事が。昨年6月に訪れた際は、最寄りの大竹駅に停車していたタクシーは週末でも1台のみ。今年2月には平日にもかかわらず5台のタクシーが停まっており、乗り場も新しく整備されていました。
新しい名所を訪れる人の影響が地域に還元され、観光地としての基盤整備につながってさらに訪れやすくなり、と好循環が生まれつつあります。
「初年度と比べると、遠方からのお客さまの割合が増えていると思います。お土産の購入が増えていたり、県外ナンバーの車での来客が増えています。広島に行く機会があればSIMOSEにも寄ってみよう、そういう認知が広がってきているのかなと思っています。地元の方も展覧会ごとに来ていただける方がいたり、ハレの日の食事に利用していただけたり、カフェだけの利用で来ていたり、さまざまな利用シーンでご活用いただいています」
ミュージアムショップで販売しているオリジナルグッズ。施設のサインデザインも行った、日本デザインセンターの原研哉(はら・けんや)氏によるデザイン(撮影/STILB 朝比奈 千明)
どこを切り取っても絵になるSIMOSEは、SNS上にも数多くの投稿が見られる(撮影/STILB 朝比奈 千明)
美術品の価値ではなく、総合的な満足度が美術館の価値3年目を迎えるにあたり、現代アートの展覧会を予定しているそう。展示の方針にも、アート複合施設ならではのこだわりが。
「坂先生もおっしゃっている通り、コレクションだけで集客する難しさはありました。次第に建築自体が訪れる価値のある目的地として認知されてきており、2年間運営してみて、下瀬美術館での体験価値は十分に世界を代表する美術館と比肩し得ると感じています。
SIMOSEが提供している体験は、美術作品の鑑賞だけではありません。瀬戸内海の美しい景色や季節ごとの草花が楽しめる庭園、レストランやカフェ、そして宿泊ヴィラといった複合施設に滞在する中で、アートに向き合う時間もある、そのような総体としてのアート体験です」(目黒さん)
館内を散策する人々。企画展示室屋上の望洋テラスへと続く、丘上のスロープが造成された(撮影/STILB 朝比奈 千明)
時間帯や季節による表情の変化も、美術館の鑑賞体験の一部(撮影/STILB 朝比奈 千明)
企画展示室棟と管理棟の間につくられた「鏡の森」。外壁のステンレス鏡面に挟まれた中庭には植栽が植えられ、木立が延々と続いているように見える(撮影/STILB 朝比奈 千明)
展示室へ向かう通路に並べられた坂 茂氏 デザインの椅子(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「たとえば有名な芸術家の絵が50点ずらっと並ぶ展示は、美術的な価値は高いかもしれませんが、多くの人にとっては見ていくうちに退屈な展示に見えるのではないでしょうか。それよりも、1、2点のある作家の絵の隣には別の作家の絵や彫刻などが並んでいる、というように、展示に展開がある方が展示作品数は少なくても満足度の高い展示にできるのではないかと考えています。美術としての価値を強く追求すると、どうしても高尚な展示になってしまい、鑑賞する方も疲れてしまう。観る人にとって楽しめる鑑賞体験になっているかを大切なポイントとして考えています。」(目黒さん)
可動展示室は1室ごとに独立したつくりであることから、1室1室異なる演出を施すことも可能です。「今後、現代アートにも力を入れていくうえで、広く受け入れてもらえる展示のあり方を考えていきたいです」と目黒さんは言います。
可動展示室の一例。アール・ヌーヴォー期のインテリアを再現した展示が、実際の使われ方を想像させる(撮影/STILB 朝比奈 千明)
「パリのルーヴル美術館やポンピドゥー・センターなどの美術館は、パリ滞在中の開催されている展覧会内容に関係なく、パリに行くなら必ず見て回ろうというスポットになっていますよね。我々としてもそういった目的地となることを目指していきたいです。現場で国内外のお客様の反応を見ていて、そのような場所にしていくことができるという実感をもっています。長い時間はかかると思いますが、日々行き届いた接客、運営を心がけることが、そのような場に育てていくことにつながると考えています」(目黒さん)
世界を見渡せば、ひとつの建築がその街の産業構造そのものを変えてしまうような事例も見られます。代表的な例が、目黒さんも言及するスペイン、ビルバオのグッゲンハイム美術館。失業率が30%にも上るさびれた工業都市だったビルバオは、1997年に美術館が開館すると年間100万人を超える観光客を集めるようになります。交通インフラの整備や観光のための関連産業の発達も進み、現在では世界的にも屈指の観光都市に変容しました。
人口30万人規模のビルバオに100万人が訪れるインパクトは、人口2.6万人の大竹市に10万人が訪れる状況と広島市街や宮島からSIMOSEに誘引した人々が大竹市内のほかのスポットを訪れるような循環が生まれていくと、建築がまちを変える起爆剤として機能する可能性も見えてきます。実際、SIMOSEの近隣に新しい店ができるなど、まち自体が変化する兆しも生まれているそうです。
動く建築によって、まちの姿も変わりつつある大竹市。広島に行く際は、ぜひ訪れてみては。
●取材協力
SIMOSE
坂茂建築設計
建築家 坂 茂 氏
1957年東京生まれ。78-80年、南カリフォルニア建築大学(SCI-Arc)在学。84年クーパー・ユニオン建築学部(NY)を卒業。82-83年磯崎新アトリエに勤務。85年坂茂建築設計を設立。東京、パリ、ニューヨークに事務所を構える。95年から国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)コンサルタント、同時にNPO法人ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク (VAN)を設立し、世界各地で災害支援活動を行う。2010年ハーバード大学 GSD 客員教授、コーネル大学客員教授。2001~08年、15~23年慶應義塾大学環境情報学部教授。代表作に、「紙の教会 神戸(1995)」、「ハノーバー国際博覧会日本館(2000)」、「ポンピドー・センター メス(2010)」、「紙のカテドラル(2013)」、「大分県立美術館(2014)」、「静岡県富士山世界遺産センター(2017)」、「ラ・セーヌ・ミュジカル(2017)」、「スウォッチ・オメガ (2019)」、「禅坊 靖寧(2022)」、「SIMOSE(2023)」、「豊田市博物館(2024)」などがある。これまでに、日本建築学会賞作品部門(2009)、フランス国家功労勲章オフィシエ(2010)、芸術選奨文部科学大臣賞(2012)、フランス芸術文化勲章コマンドゥール(2014)、プリツカー建築賞(2014)、JIA日本建築大賞(2016)、紫綬褒章(2017)、マザー・テレサ社会正義賞(2017)、アストゥリアス皇太子賞(2022)、高松宮殿下記念世界文化賞 建築部門(2024)など受賞。現在、ニュー・ヨーロピアン・バウハウス委員、芝浦工業大学特別招聘教授。
この記事のライター
SUUMO
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『SUUMOジャーナル』は、魅力的な街、進化する住宅、多様化する暮らし方、生活の創意工夫、ほしい暮らしを手に入れた人々の話、それらを実現するためのノウハウ・お金の最新事情など。住まいと暮らしの“いま”と“これから= 未来にある普通のもの”の情報をぎっしり詰め込んで、皆さんにひとつでも多くの、選択肢をお伝えしたいと思っています。
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