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東京・銀座の数奇屋通りにあるビルの地下1階に1966年、13坪の小さなクラブがオープンした。
店の名は「クラブ順子」。当時24歳の田村順子は“
銀座最年少ママ”
と話題を集め、その後、店は政財界や芸能・スポーツ界の大物が集うサロンとして半世紀の歴史を刻んできた。
日本の高度経済成長時代からクラブ経営を手がけてきた順子ママは、誰もが認める“
銀座のレジェンド”
であるが、その半生はミステリアスなヴェールに包まれている。
昭和の銀座を知る長老たちは、こう口をそろえる。
「1960年代の前半から、“
ジュンコ”
の名は有名だった。
当時、銀座のなかでも最高の女が揃っていると評判だった山口洋子ママのクラブ『姫』の若きエースとして、多くのファンを抱えていた。
あどけなさのなかに、男を狂わせる魔性の魅力があったんだね」
五木ひろしの代表歌『よこはま・たそがれ』の作詞でも知られる山口洋子さんは、1956年に19歳の若さで「姫」を開業。持ち前の気配りと話術で、同店を銀座でも指折りの高級クラブに発展させた。
1985年には作家として直木賞を受賞しているが、女心の深奥を描く作品の源流には、銀座ママ時代の経験が色濃く反映されている。
その山口洋子さんが、もっとも評価したホステスの1人が田村順子だった。
日本楽器(現・ヤマハ)銀座支店の受付嬢を経てモデルの仕事をしていた当時22歳の順子をひと目で気に入り、即日「姫」にスカウト。洋子ママの見立て通り、順子はたちまち「姫」のナンバー1となり、夜の銀座にその名を轟かせるようになる。
■「美人受付嬢」だった順子にまさかの「解雇宣告」
若き日の順子ママには数多くの“
激モテ伝説”
がある。
まだ「姫」のホステスになる前、日本楽器(当時は“
ニチガク”
と呼ばれていた)銀座支店の受付をしていた順子は、ある日社の幹部に呼び出され、“
解雇”
を通告される。
「ニチガクの受付にかわいい子がいる」と銀座中で噂になり、会社の受付電話に連日、男たちから“
デートの申し込み”
が多数入るようになったため、電話の交換台の担当者が社の上層部に通告したのが原因だった。
その後「姫」に入った順子は、無遅刻無欠席、6ヵ月連続同伴出勤という当時の“
記録”
を打ち立てる。入店時、2800円だった日給は2年後、1万2000円にまで上昇した。大卒の公務員初任給が月給約2万円だった時代である。
あるとき、「姫」で酔った客が山口洋子ママに抱きつき、キスを迫ったことがあった。そのとき順子は思わずこう叫んだ。
「やめてください! ママにはそんなことしないで。やるなら私にして!」
後に、山口洋子は順子にこう語ったという。
「あのとき、あなたはいけると思ったのよ。この仕事に向いている。きっと成功するとね」
■ビートルズ初来日と「夜の接待要員」
順子が「姫」の人気ホステスだった時代、世界的人気を誇ったビートルズが初来日(1966年)することが決定した。当時の「姫」の常連客に、このビートルズ招聘(しょうへい)を手がけた興行関係者がいた。
ある日のこと、「姫」で接客していた順子は山口洋子ママがこの常連客に大きな声でこう言っているのを聞いた。
「どんな条件でもそれはダメです。順子ちゃんだけは私が認めません!」
「これは後から聞いた話ですが」と語るのは順子ママご本人である。
「彼はビートルズが来日した際、夜のお相手をする女の子を選定していたというのです。洋子ママは、まだ若くて世の中のことを知らなかった私を、知らないところで守ってくれたのでした」
ビートルズの「夜の接待」となれば、受けても断っても伝説になりそうだが、このとき「ご指名」がかかっても毅然(きぜん)と断った山口洋子ママも凄かった。
「歴史は夜、作られる」
――戦後裏面史の舞台であり続けた「クラブ順子」の50年を、田村順子ママが回想した別冊宝島『「銀座」を愛した男と女たち』がこのたび刊行される。
初めて明かされる数々の逸話は、正史を凌駕する圧倒的なリアリティに満ちている。
この記事のライター
宝島オンライン
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