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今は水煮もあるので一年中食べられる「たけのこ」だが、旬は4月下旬から5月上旬だ。この時期になると、江戸っ子たちはこぞってたけのこを食べた。落語には、隣家の竹林から生えてきた「たけのこ」の所有権を争った噺がある。連載【江戸の知恵に学ぶ街と暮らし】
落語・歌舞伎好きの住宅ジャーナリストが、江戸時代の知恵を参考に、現代の街や暮らしについて考えようという連載です。たけのこの所有権を隣家と争う、落語の「たけのこ」
落語「たけのこ」は短い噺だが、笑いどころが多く楽しい落語だ。筆者は、柳家喜多八師匠で何度か聴いている。落語では珍しく、町人ではなく武士が主人公だ。
武士が家来に昼飯の肴(さかな)を尋ねると、「たけのこ」と答える。さらに、どうやって手に入れたのか尋ねると、隣家の竹やぶがこちらの庭にもたけのこを生やしたという。
武士は、「盗泉の水を飲まずとは古人の戒め、 隣家のものを無断にて掘り取るとは何事か」といったんは叱るが、そうはいっても食べたいから、隣家に断りを入れて来いという。
家来が隣家の主を訪ね、武士に言われた通り「ご当家のたけのこが当方の屋敷内に土足で踏み込んだので、召し取って手討ちにする」旨を伝える。ところが、隣家の主も負けじと、「お手討ちはやむを得ないが、亡き骸はこちらへ引き渡しを願いたい」と応じる。
鰹で出汁を取って待っていた武士に、家来がこのことを伝えると、武士はさらに負けじと、「不届きなたけのこはすでに手討ちにし、亡き骸は手厚く腹の中へ葬った。骨は明日には高野のせついん(雪隠=便所)へ納まるであろう」と言って、はいだ竹の皮を形見に渡して来いという。
家来が再び隣家の主に伝えると、主は嘆いて「かような姿に成り果てたか…、かわいや、皮嫌」。
現代ならたけのこの所有者は誰のもの?なんと、民法に規定がある。隣家から塀や垣根を越えてきたものでも、垣根の上を越えて伸びてきた枝は勝手に切ってならないことになっている。枝についた柿や蜜柑も同様に、勝手に取ってはいけない。
一方、隣家から竹の根が垣根の下を越えて自分の家の庭に生えてきたら、勝手に切ってよいことになっている。要するに、枝と根では扱いが違うということだ。したがって、落語の武士の場合は、現代でもたけのこを腹に収めることができるということだ。
江戸時代にブームになった、たけのこ料理江戸時代、旬のたけのこは落語になるほど珍重された。たけのこの料理法が料理本にも紹介されるほどだ。それによると、汁物、和え物、漬物、刺身、焼き物、蒸し物などさまざまな料理法があったという。たけのこが生えてから10日間ほどで竹に成長してしまうので、旬の時期が短いからだろう。
人気となる背景には、薩摩藩が琉球経由で中国から「孟宗竹(もうそうちく)」を輸入して栽培していたことがある。薩摩藩が将軍家に献上したことから、江戸でも広がった。日本にあった「真竹(まだけ)」より柔らかくて苦みのすくない孟宗竹は、食用に適していたからだ。
孟宗竹は、江戸時代後期から栽培され、品川の戸越村の特産品となり、目黒の碑文谷村に広がった。参詣客でにぎわっていた目黒不動尊の茶飯屋で「たけのこ飯」を出すようになると話題になり、たけのこブームに火がついた。
現代の繁華な戸越銀座や閑静な住宅地の碑文谷が、江戸時代は竹林だったわけだ。目黒区のホームページによると、品川の竹林は大正時代に宅地化され、目黒の竹林は関東大震災を機にだんだん切り開かれていき、鉄道が敷かれ家が建つようになり、「今ではすずめのお宿緑地公園などにわずかに残るだけとなった」とある。
たけのこは、採ってから時間が経つほど灰汁(あく)が強くなるため、できるだけ早く調理するのがよいとされている。それを知ってか知らずか、武士は出汁を用意して、使者に出した家来の帰りを待っている。旬なものを美味しいうちにというのは、今も昔も変わらない。
●参考資料この記事のライター
SUUMO
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『SUUMOジャーナル』は、魅力的な街、進化する住宅、多様化する暮らし方、生活の創意工夫、ほしい暮らしを手に入れた人々の話、それらを実現するためのノウハウ・お金の最新事情など。住まいと暮らしの“いま”と“これから= 未来にある普通のもの”の情報をぎっしり詰め込んで、皆さんにひとつでも多くの、選択肢をお伝えしたいと思っています。
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